生まれ来る子供達のために
馴染の芸者のところにあがり込んで数日を過ごした後の朝帰り。
車を呼ぼうとした下働きの少女を、すぐ近くだから、と制した公彦は煙草の火を点けると朝焼けの街をゆっくりとした足取りで歩き始めた。
下町の朝は早い。あちらこちらから立ち昇る朝餉支度の匂い、かすかに響く包丁の音。
自分の朝食の用意はされているのだろうか。
ふと浮かんだ考えに公彦は苦笑を漏らす。たとえ自分が何日戻らなかろうと、毎回の食事の支度は欠かさない。真貴子はそういう女だ。
自分が始めて求め、望んで傍らにいることを許した仲間たち――機神兵団。なかでも大作と白蘭花は特別だった――その大作の姉、真貴子と結婚したのはもう2年も前のことだ。
あの日、白蘭花が、大作が異次元へと旅立って言った後、胸の中に感じた微かに痛み。それを振り切るように真貴子に告げた。
『帰ってきますよ。貴女もそう信じるでしょう?』
そして、一つの提案。
『どうでしょうね、二人で一緒に待つというのは』
そこで交わされた視線の意味は二人にしかわからないものだった。
日本に帰るなり、父である真澄伯爵の元を訪れた二人は結婚を決めたことを報告した。
父伯爵はしばらく黙った後、おもむろに真貴子の方を向くと静かに尋ねた。
『なぜ、こいつと一緒になることを決めたのかね?
父の私から言うのもなんだが、こんな、女にだらしの無い男だ。
貴女のような素晴しい女性が選ぶような男ではない。もし良ければ、あなたにつりあうようないい男を紹介させてもらうが?』
父としてはかなりひどい――父だからこそ言える台詞なのかも知れないが――真実を告げられて苦笑するしかない公彦だったが、それに対する真貴子の台詞には更に自虐の意を込めた苦笑いを深める結果となった。
すなわち
『大変ありがたいお申し出ですが、私は公彦さんと結婚したいと思っております。
理由でしょうか?私と同じ人を愛しているからです』
まっすぐに前を向き、決然と言い放った真貴子の台詞に、さすがの伯爵も飲みかけていたお茶を噴出し、慌ててその場を取り繕うかのように咳払いをして見せていたっけ。
その台詞を受けて、公彦は静かに考えた。
つまりは、真貴子は公彦を愛して結婚を決めた訳ではないのだ。
大作を待ち続けるのに、これから先生活してゆくのにちょうど良い相手として公彦を選んだにすぎない。
そう、公彦自身としても真貴子を今までのような『運命の女性』として考えた訳ではないのだ。決して。
以来、二年の月日が流れても、公彦は真貴子を抱いたことは無い。
愛していない女性を抱くほど不自由しているわけでなし、戯れに身体を投げかける女はいくらでもいる。
真貴子を家に残して、公彦は外泊を繰り返していた。
「お帰りなさいませ、公彦坊ちゃま」
真澄伯爵邸の敷地の中、離れを改装して若夫婦は暮らしている。
当然、何人かの下働きの者たちはいるものの、普段なら決してでしゃばってくることの無い顔――公彦にしてみれば、ある意味父伯爵よりも苦手な人である――ばあやが玄関先で三つ指をついているのを見た公彦はすかさず回れ右をしようとして、着物の袖口から枯れ木のような腕に襟首を掴まれる。
「や、やあ。ばあや、おはよう」
「今お帰りになったばかりの筈なのに、もうお出かけになられるとおっしゃられるのですか?坊ちゃまは」
「いや、ばあやがいるから母屋と間違えたのかと…」
首をすくめた亀のように小さく呟く公彦であった。
「お間違いじゃございませんよ。ええ、確かにこちらは坊ちゃまと若奥様のお住まいでございますとも」
公彦が逃げないことを確認するとようやく掴んだ襟首を離し、腰に手を当てて自分よりはるかに大きな身体をねめつける。
「まったく。中々お戻りになられないものだから、ご自分のおうちもお忘れになられてしまったんでしょうかね」
公彦の脱いだ靴を揃え、上着を受け取りながらもばあやの愚痴はとまる気配が無い。このままいくと思い出したくもない子供時代の『坊ちゃま!そこにお座りなさい!』に行き着くことは目に見えている。
話をはぐらかそうとする目的と、いつもなら玄関先で待っているはずの真紀子の姿が見えないことに不審を感じた公彦は、ばあやが息をついた瞬間を狙って何気ない声を出す。
「ところで、真貴子は?」
「床についてらっしゃいます」
「え?」
眉をひそめた公彦を再度見やり
「もう十日ほどになりますよ。いったい、何処にいらっしゃったんです?
奥様に連絡先を尋ねても『その必要はありません』としかおっしゃらないし…」
「具合はどうなんだ?」
「お医者様がおっしゃるのには、特に悪いところはないそうで、むしろ気鬱の病かと」
「部屋にいるのか?」
「いえ。こちらにお一人でいられるかはましだろうと、大旦那様のお言いつけで母屋の方
で生活しておいでになります。
私は、坊ちゃまがお帰りになった時にお話をするためにこちらに来ておったんです」
本当にようございました。と溜息をつくばあやの腕から上着をひったくって公彦は足早に玄関へと取って返す。
たいした距離ではないが、それでも広い屋敷だ。母屋の扉を蹴り上げる勢いで開けると、脅えた表情の女中に真貴子の部屋を訪ね、再びダッシュする。
さすがに部屋の前で立ち止まり、呼吸を整え、乱れた髪を撫で付けてから静かに扉をノックする。
「…どうぞ」
返事を待って扉を開けた公彦は暫しその場で呆然とした。
ベッドの上に半身を起こした女性は本当に真貴子なのか。
公彦の記憶にある真貴子は、ふっくりとして、真の強そうな瞳が輝く美貌の女性だった、はず、なのに…。
今、こちらを見ているどんよりとした瞳、こけた頬のその人はまるで別人で。
「おかえりなさい。お迎えにも出ずに申し訳ありません」
何の感情も無い、乾いた細い、声。
「具合が悪いなら、何故使いを出さなかった?
俺のいそうなところは大体わかっていただろう」
公彦から顔を背け、窓の外を眺めながら真紀子がぽつりと答える。
「お忙しい貴方に連絡するほどのことでもないと思いましたので」
「…それは、どういう、意味だ?」
「他に大事な女性が大勢いらっしゃいますでしょう。名ばかりの妻のご機嫌取りなどしている暇も無いほどに。
あなたがどこにいらしたか、それを私の口からお義父様におっしゃれと?
他の女性の名前を次々挙げて見せろとおっしゃるのでしょうか?」
頑なに窓の外を眺め続け、決して自分と視線を合わせようとしない真貴子にさすがの公彦
も苛立ったのか、口をついて出たのは恐ろしく冷たい言葉だった。
「君が俺と結婚したのは、ただ、大作を待つためだけだろう?
ならば、俺が他の女のところに行って何が悪い?」
言うが早いか、公彦の頬には真貴子の平手が炸裂していた。
「大作を待つだけなら、一人で待ち続けます。どんな環境に置かれても生きていくことは、待ち続けることはできますっ!」
息を切らし、振り絞るように叫んだ真貴子の瞳は先ほどまでのどんよりしたものではなく、
初めて会った頃のように静かに燃えていた。
公彦の好きな、公彦の愛した強い、まっすぐな瞳。
「私が望んだのはあなたと共に待つこと、あなたと一緒に、あの二人を迎えてあげることです…」
俯いて瞼を伏せた横顔の儚い美しさは、手を伸ばして触れることさえ許されなさそうで、
その場に立ち尽くす公彦だった。
そんな公彦に、ベッドから身を起こし、きちんと正座をして三つ指をついた真貴子は改まった口調で話しかける。
「お願いがあります」
「…何を…」
想像した言葉に、答える声がかすかに上ずっているのが真貴子は気付いたろうか。
「離縁して下さい」
顔を上げ、きっぱり言い切る真貴子は揺れる視線に気付かずに更に言葉を続ける。
「このような状態の者をいつまでもあなたの妻にしておくことは御家の為にもなりません。
勿論、あなた自身の為にも。次に選ぶなら、もっとおとなしやかな、あなたのお立場に相応しい女性をお勧めいたします」
「俺と別れて、君は一体どうするというんだ?」
「どうにでもなります。看護婦の経験もありますし、独りで生きていく気になりさえすればどうにかなるものです」
「何故だ?何故今更そんなことを言い出す?」
「…二年、待ちました。あなたがどういうおつもりで私と結婚したかを知りたくて。
もう、充分です」
真貴子の頬を静かに流れ落ちる涙。だが、自分では気付いてないのか、拭おうともせずに淡々と話し続ける。
「一人で待ち続けようとした私を憐れんでくれたのでしょう?でしたら、日本へ連れ帰ってくれただけで充分でしたのに」
「ちょっと待ってくれ!」
たまらず叫んだ公彦だった。
「君はあの時、結婚を決めた理由を父に問われてこう言ったんだ。『私と同じ人を愛しているから』って。俺が誤解していた事だけを責めるつもりか?」
負けずに言い返す真貴子。
「確かに私はそう言いました。だからといって、私が、それだけのためにあなたと結婚を決めたと?
結構です。それだけの女ならばさっさと私を離縁なさればよろしいでしょう!」
「誰がそんなことを言ってる!」
「ここに、あなたと私以外の誰がいるっていうんですか?」
「だが、それだと君が俺のことを思っているって事になるんじゃないか?」
「さっきからそういってます!
確かに、大作は私の大事な弟です、見守ってやりたいと思ってます。けれども、私は大作と一生添い遂げるつもりはありません!」
両手を挙げて首を傾げてみせる公彦に、三つ指姿をかなぐり捨てて噛み付く真貴子。
…別にいいけど、病気は何処にいったんだ?
気付いた公彦が、不意に肩の力を抜いて真貴子に微笑んでみせる。
「いつもの君に戻った」
「…え?」
「それでこそ、真貴子だ。俺が愛した、君の姿だ」
興奮している真紀子の肩を宥めるように軽く叩いた後、ぎゅっと抱きしめてそのままベッ
ドに腰を下ろす。
得意の女殺しの視線ではない、真面目な瞳で巻きこの瞳を覗き込んで、ゆっくりと唇に笑
みを形作る。
「つまりは、相思相愛だったわけだ。おたがい、とんでもない遠回りをしたもんだ」
一つ息を吐いたあと、静かに言葉を続けていく。
「確かに、俺はあの二人と行けなかった。君とここに残らなければならない、その意味を考えて『一緒に待とう』と言った。だが、愛していない女性を妻にするほど愚か者ではないつもりなんだが」
『愛されてないとわかっている女性を抱くほど不自由しているわけでもないし、ね』
と耳元で囁くとウインクを一つ。
呆れたような表情の真貴子の唇に、ついばむだけの口付けを与えるとそっとベッドに寝か
しつける。
「まずは身体を健康な状態に戻してくれ。病人を無理矢理抱き倒す趣味は無いんでね。
今までのすれ違いを埋めて余りあるほどに傍にいるから」
小さく頷いてそっと閉じた瞼に口付けると、静かに部屋を出て行く。
さりげなく滲んだ瞳を拭った公彦は、穏やかな笑顔を浮かべながらゆっくりと歩き出す。
これから先の人生を、二人で寄り添って生きていくために―――。
やがて、二人の間には子供が生まれる。生まれた子供を公彦はたいそう可愛がったが、
やはり生来の女好きを矯正できずに多くの女性を求めてふらつく癖は生涯直らなかったと
いう。
それでも、真貴子は呆れながらも二度と妻としての自分に自信をなくすことはなかった。
――公彦が自分の元に帰ってくるのがわかっていたから。――
■■■■■管理人からのコメント■■■■■
前にFAXで送っていただいたときから、大好きな小説で、私のHPが上がったら
その記念で載せてもいいよと約束をとりつけさせてもらった作品です。
今回、うちのHPに載せれて嬉しい限りです。
とささん、ありがとうございます。
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